Dienstag, 28. Oktober
自信がなくて困ってんのはこっちだよ。
彼と一対一で向き合うと私はなんだか人が変わったようになる。彼はどちらかというと悲観的な考えをする人で、私が彼の悩みを聞くことが多い。
私は彼にアドバイスする立場になる。目の前の悲観的な彼に比して、饒舌になる。楽観的になる。自分を卑下する彼に対して、いろんな言葉で励ましをかける。立場ひとつで人の性格や考え方がこんなにも変わるなんて驚きだ。
俺だって相当ひねこびた考えの持ち主のくせに、偉そうに。
彼は自分に対して自信が持てないという悩みについて話した。それはまさに自分が自分の問題だと思っていることと一致した。しかし私は問題の共有という方策を取らず、否定・止揚の方向の返答をした。「自分ではわからなくても、外から見るとお前にはいいところがいっぱいあるよ」と。よくもまあこんなことが恥ずかしげもなく言えたものだと思う。
「こういうのはあんま他の人には言えないんだけどさ」という枕詞で彼が話し始めると、私の心の中の自尊心が醜い笑みを浮かべて喜ぶのがわかる。「彼の、他の人には言えないような相談を受けられる立場に、自分はなっている」のだという認識で。それが身をよじるくらい嬉しいのは、私自身が決定的に人間関係に関して自信がないからなのだ。
私は時折、自分が友達だと思っている人たちを、一人一人名前をあげながら指折り数えている。私にはいい友達がたくさんいる、そう思いたい一心である。とたんに20人以上の名前が挙がってきて、私はひとまず安心する。
しかしながら心の奥底には、自分は彼らにとってそれほど重要な人間ではないのではないか、という恐怖が渦を巻いているのだ。
それは友達を信頼していないということとほぼ同義で、だから私はその思考を一刻も早く捨てたい。
この数か月私はいろいろな飲み会などにできるだけ多く顔を出してきた。いくつか自分で飲み会を開催もした。それも、できるだけ自分の交友関係を維持強化していきたいというモチベーションに基づくものである。
私にとって友人は貴重なのだ。それは私が新たな人間関係を構築するのが下手だからである。私が今まで作ってきた友達はだいたい、知り会ってから少なくとも1年以上かかって、やっと気軽にいろいろな話ができる間柄になった。長いものだと2年とか3年かけて継続的に顔を合わせてやっと、という人もいる。
大学の友人たちはいい奴らだ。思い出もたくさん作った。でも私はもうすぐ卒業してしまう。そしたら会う機会は否が応でも少なくなるだろう。その時に彼らは私のことを、どれくらい重要な存在だと思ってくれるだろうか?
もちろんそれはひとえに私の人徳次第なのだろう。尊敬すべき先輩がたが兼ね備えていた、思わずその人に頼りたくなるような人徳。それを身につけるためにどのようなことをすればいいのか、まだあまり私はわかっていない。
どうでもいいような日常 その1
ある日私はある男と二人、向かい合わせで昼飯を食った。
私が彼と会うのは、覚えている限りでは3度目だった。1度目は3年前に福島で、2度目は2年前に北海道で。あとは1年くらい前、夜に向こうから急に電話がかかってきて2時間くらい話した。それだけだった。
ある2限の授業で偶然顔を合わせたのだ。「飯いこ」と彼は言葉少なに言った。私は0.3秒くらい考えた後に「行こう行こう」と答えた。0.3秒の間は、その日の昼食にしようと朝買っておいたサンドイッチによるものだった。
普通の値段で普通の味がする中華料理屋に入った。私が適当に言ったらそこになってしまった。2階に通された。他には客は誰もいなくて、外に比べるとなんとなく薄暗かった。
この1年の間で私が彼のことを思い出したのは数回あるかないかで、その間インスタで見かけることもなければLINEを交わしたこともなかった。でも私は彼とどこか深い部分で繋がっているような気がした。ただそれは私と彼が馬が合う、というような単純なことでは言い切れないように思う。事実その時私は彼にけっこう気を遣っていた。私は決して自然体では話していなかった。
エアコンはついていなくて、半分くらい空いていた窓から初夏の風が吹いていた。回鍋肉を食べる彼の額に小さな汗が浮いているのを私は見つけた。彼はしきりにスマホをいじっていた。
社交辞令をすっとばして、話題は深く広範にわたった。話し始めるのは主に彼だった。
「『お前は生きやすそうだよなあ』ってよく言われるんだけど、おれがどれだけ苦しみを感じているかをわかってくれる奴はいないんだ」
私は、「どれだけきらきらして見える人にもその人なりの苦しみがあって、それは他人から理解することは絶対にできないものなのだ」と答えた。
「人ってやっぱり見た目によるよな、チビとかだとやっぱり卑屈になっちまう」
彼にはこういう加害性があって、それは私が彼に初めて会った大学1年の時に「こいつとは仲良くなれないな」と感じた要因でもあった。
「卒業一年延ばしたんだ。就活やりたくなくてさ」
彼の表情を見たわけではなかった。しかしその声には自己肯定感の高さは全く読み取れなかった。それが彼の総体をあらわしているような気がした。
きっかけは2年前、羅臼の温泉で二人きり、私はお湯の中で彼と2時間くらいずっと話したことだった。それ以来彼とは、他の誰かには絶対に言わないことを言ってしまうような、けれど自然体で接することができるわけでもない、奇妙な関係性だった。しかしさっき言ったように彼と話したのはそれ以来2度目でしかなかった。
「うれしいな、そういうこと覚えててもらえると。恋愛の話とかしたよな」
私は正直そのことはあまり覚えていなかった。しかしすぐに「うん覚えてる覚えてる」と答えた。
店を出ると13時になっていた。私は3限に出るからと言って彼と別れた。
その日の夕方図書館に向かっていたら、7メートルくらいの距離で彼がこちらに歩いてくるのが見えた。私は気づかないふりをした。彼もこちらに気づいたそぶりは見せなかった。
それから早いものでもう半年くらいが経った。私はあれきり彼と話していないし、メッセージのやり取りもしていない。また話す機会があるのかは不明瞭だけど、でもまたひょんなことで話すのかもしれない。
読書記録2
『バーボン・ストリート』沢木耕太郎 1989
若者は常に退屈しているらしい。ある喫茶店で彼が聞いた男子高校生の会話は、まるで中年のようだった。少し端折りながら紹介しよう。
「昔は、ディスコでも盛り上がる曲が好きだった」
「朝まで踊ってても疲れなかった」
「でもディスコって帰る時が虚しいんだよな」
「その虚しさがたまらないんじゃないか」
「そうかもな、でもどっちにしろ昔のことだ」
「元気だったな、俺たちも」
「つまらねえな、最近は」
「なんか面白いことねえかな」
とまあこのような感じだ。それを聞いた彼は、「いつの時代の若者も、こんなもの」だし、自分もそうだったと断じる。そして中年になった彼は、世の中にそんなに面白いものがあるわけではないという。なぜなら面白さとは相対的なもので、退屈の中に面白さというものはある。だから日常が退屈なのは仕方ないというのだ。そしてその退屈があるからこそ、何かを考えて作ろうとするものだという言を紹介している。
でも、どうしようもなく退屈な日々に対して、わくわくに満ち満ちた日々というものも存在する。友人との飲み会。旅行。勉強や課題。そのほか病院や役所などの小さな用事。そういうものに追われて忙しい日々というのは、楽ではないがそのぶん「とにかくがしがし何かやっている」という充実感を得られるもので、退屈などとは無縁である。
そういう時間を振り返ってみると、本を読んだり何か考えを書いたりといった深めの思考もけっこうできているし、あるいは人と話すことで新たなモチーフやモチベーションが湧いたりと、いいことずくめである気がする。まとまった時間があっても無駄にしてしまうものなのだから、毎日はできるだけ忙しいほうがいいのだ。
でも退屈って若いうちに特有なのだろうか。ある程度の年齢になったら退屈じゃなくなる、というのは信じがたい。仕事に家庭に邁進していて充実しています! というのはもちろん望ましいけれど、中年になったら多かれ少なかれ「人生において退屈とは仕方がないものなのだ」というある種あきらめ的なものに支配されてしまうのだとしたら怖いことだ。
「毎日もっともっと面白いはずなのになんで今俺はこんなに退屈なのだ!」という勢い、それが若さの言い換え的なものであって、年を取るとそれがだんだん失われてしまうということなのではないか? と今思った。
『負け犬の遠吠え』酒井順子 2003
『負け犬の遠吠え』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター
婚活というものにあまりいいイメージを抱いていない。それはそうである。そんなもの全く必要とせずに幸せな結婚をする人たちが大多数の中で、十数万円という高い金を払ってそれに頼らざるを得ない方の人たちになってしまうのはやはりしゃくだからだ。しかしながら、あらゆる手順でこれほどまでに「同意」を得ることが必須とされた社会で、しかもしっかりと同意を取ると雰囲気がこわれる、などと言われてしまった日には、婚活のような「あなたもわたしもお相手がほしくてここに来ています」というある意味安全な場の需要があるのは当然であるし、むしろこれからはそれが普通になっていくのではないかとも思う。すでに、恋愛なんて別にしてもしなくてもよくない? という価値観が若者の間で広まっている。恋愛がしたいのではなく、結婚をしたいのである。そしてそのモチベーションは将来に対する不安である。
この本の中で書かれているのは、世間からのなんとなく冷たい目線のなかで連帯しあう独身女性たち、その生活は表面上は気楽で豊かだけど、フトしたときにどうしようもなくさみしさが漂う......というような感じである。今や世間の冷たい目線はもはやない。あるとすれば祖父母の期待くらいである。しかしフトしたときのさびしさはいかんともしがたい。前の日曜日、暇だったので一人で長野旅行に行った。私は旅先でご当地のものを食べるのが好きなのだが、腹がふくれればもう食べることはできない。仕方なくコンビニでローカル新聞を買って昼下がりの公園で読んでいたのだが、どうもむなしいのである。これを30代になってやっていたらいったいどうなってしまうのか、末恐ろしくなった。しかも、30代なんてまだまだ若いのである。そういうことを初夏の青空の下で考えていたら天気に似合わず鬱屈としてきてしまったので、気晴らしにラーメンでも食べに行こうかと思ったが、それこそ楽しみが食しかない証左というべきである。
だいたい、恋愛に興味がない男性の休日の昼間、三大欲求のうち睡眠欲と性欲がなかったら、食欲しか残らない。それで食欲が満たされてしまったら、どうしようというのだろうか。私は仕方なく県立図書館に向かって本を読んで時間をつぶしたのだが、どうも本質的な解決策ではない感が否めなかった。そこで土産屋に入って日本酒を買い込んで飲んだ。ますますどうしようもないのであった。
読書記録1
書いていなかっただけで読んではいたんです! と言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。仕方あるまい。そもそもそこまで読んでいたかどうかも怪しいのである。
なぜ文学は人生に必要か、という問いからこの本は始まる。その問いは得てして少し反語的だが、この本では短く言うと「読んで面白いから」である。
それはただ楽しいとうわけではなくて、言葉の集まりの中の何か、その内部にある大きなものによって、人生が喚起されることによる面白さである。具体的にいえば「そういう見方がありえるのか」という驚きや、「確かにそういうことが存在する」という共感だったりする。太宰治の『ヴィヨンの妻』は最後に「人非人でもいいじゃないの。私たちは、ただ生きてさえいればいいのよ。」と結んで終わる。『津軽』は、「さらば読者よ、命あらばまた他日。元気でいこう。絶望するな。では、失敬。」で終わる。最後だけだと、だから何? という感じかもしれないが、全編読んでから終わりにこれを読んだとき、「どうしようもないかもしれないが、どうにかしていくしかない人生の感覚」とか、「育ての人と故郷と昔馴染みの安らぎ」みたいなものを感じることができる。そういうことだと思う。
ただそういう感覚が面白いと思う人もいる一方で、それとは無縁の人生を送る人もいる。同じ人が急に本を読み出したり、よく読んでいた人がぱったりとやめてしまったりもする。文学とは意味がある人にとってはとことん意味があるが、意味がないと思う人には全く意味がないものだ。
ところで世の中には、「よい/すごい」とされている文学と、「つまらない」とされている作品があるが、何が違うのか。まず前提として、文学に見出す意味は人それぞれである。だから、ある作品が他人に刺さったから自分に刺さるわけではないし、逆も然りだ。もし作品自体がすごいというのならばそれは、多くの人に刺さったかどうか、ということになると思う。
しかしそんなことを言えば、シェイクスピアよりもこのすば! の方が名作である、という論も成り立つことになる。だから作品自体のすごさというのは比べるべきものではないのだ。このすばに人生を変えられた人もいるだろう。その人にとってこのすばは名作であった。しかしシェイクスピアを読んで感動のあまり考えが変わった人は、この数百年で全世界中におそらく多くいるのだ。彼らにとってシェイクスピアは類い稀な傑作である。
私の頭の中には今もめぐみんが生き続けているし、"All the world's a stage, and so he plays his part" のくだりも秀逸だと思う。どちらも名作だった。それだけの話である。
『ニッポンの課長』重松清 2004。
いろいろな会社の課長さん方の暦伝が載っている本である。私がこれを読み始めたのは、この本に極めて現実的なサラリーマンの現実とか苦悩とかが書いてあるのではないか、そしてそれを自分が働き始めた時の参考にできるのではないか、と思ったからだ。しかしこれを読んで気づいたのは別のことだった。それは、自分で考えたことしか頭に残らないということである。
やっぱり自分ごとでないと頭に入ってこないのだ。他人の経験談をはいそうですかと読んでもそれは他人の話にすぎず、自分の中で再解釈するプロセスがないとやはりいけない。そういう意味で、良いエッセイ集などは事実とともに筆者の価値観がよくわかり、それをもとに色々と自分で反芻することで自分の考えを深めることができる。
しかしルポやノンフィクションになると、筆者の考えが透明化して真実を伝えようという部分にフォーカスしているものが多く、それがために読後感が薄くなってしまうということが起こる。
つまり私は他人の考えが読みたいのだろう。現に私この本で一番興味深かったのは巻末付録の特別対談であった。ともあれ自分の思考の癖がわかったという意味ではいい読書であった。
「質問はありますか?」「......(沈黙)」
就活の面談で、霞ヶ関のオフィスに行く機会があった。
早く着きすぎたのでぶらついていると、ビルの一階に大きな書店があった。さすがにオフィス街、ビジネス書や雑誌が豊富にあったので立ち読みしていると、休養とリーダーシップの特集をしている雑誌があった。
中身を見ると面白そうだったのでそのまま買ってしまった。
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「質問はありませんか?」と聞かれて、質問が思いつかなくて困ることがよくある。
文章や相手の話を、ふーんそうなんだとただ受け流してしまうと、内容を理解はできても自分の頭の中に入ってこないものだ。文章を一通り読んだ後に、今何が書いてあったんだっけ? と振り返ると何も思い浮かばない、そんな無駄な読み方をよくしてしまう。何かを食べるのに噛まずに丸呑みするようなもので、味もわからないし消化もよくないといいことがない。
相手の話も文章も、ただ腹におさめればよいのではなくて、意識的に噛まなければいけない。言葉を変えれば取っ組まなければいけない。それは自分の考えと違うけど彼はどういう理屈でそう言っているのか? とか、彼の言ったことを違う言葉で言い換えるとこういうことではないか? とか、彼の説によればこういう場合にはこうするとよいということか? とか。
今あげたものは全部疑問であり、質問の材料になりうる。これらが全く浮かばないというのは、正直本当に話を聞いていたかどうかも怪しい。その場では理解していても、明日になったら全部忘れていると思う。
では相手の言葉に取っ組み、そのようなカウンターアウトプットを出すにはどうすべきか。私は、今自分の脳が何パーセントの出力で動いているか? を気にするべきだと思う。人間の脳は移り気なので、意識しないと集中せずに他のことを考えてしまう。自分は今きちんと相手の言葉にリソースを振り向け、高出力で向き合っているか? ということである。言葉の端々から覗く相手の裏側の部分、言葉にならないけど出ている感情とか別にそこまで気を払わなくてもいいけど、ちゃんと相手に向き合い、そのサインをこちら側からも出していく、聞き上手になりたいものである。
「相手の話に質問をしないのは、聞いていなかったと言っているのと同じ」とは、駒場時代にドイツ人の教員に教え込まれた格言だ。質問はありませんね、というのは日本では場の同意を意味するけれど、ドイツでは違う。質問上手は聞き上手なのではないかと思う。
旅行記② 2022春 北海道
2022年3月14日、東大に入学書類を送り終えた私は一人北へと向かった。第二の卒業旅行として、単独では2回目になる北海道旅行の始まりである。
今回は道東を幅広く攻めることと決め、大まかな旅程は以下のようになった。
3/14 東京-八戸 フェリー泊
3/15 苫小牧-釧路 ホテル泊
3/16 釧路-根室-釧路-網走 ホテル泊
3/17 網走-紋別-興部-雄武-名寄-旭川-羽田(飛行機)
今までほとんど足を踏み入れたことのなかった道東の旅、また受験で長らくご無沙汰していた長期旅行とあって、自分自身なかなか楽しみにしていた。それではその模様を、3年越しに振り返ってみようと思う。
1日目
18きっぷを使って家を出て、ひたすらに東北本線を乗り継いでいった。昼すぎに仙台に着いて駅そばをかき込み、30分ほど時間が空いて乗り継ぐと18時に盛岡着。18時25分盛岡駅前発のバスに乗ると21時前に八戸港に着く。苫小牧行きのフェリーは22時発、明朝6時には苫小牧港という算段である。
電車の中では何をしていたのだったか、忘れてしまった。ただ初春の東北の茶色い風景が、夕方の陽とともに暗くなっていくのはうっすら覚えている。私は電車を降りられずに、ただ揺られていた。岩手県に入ると乗り換えの電車の帯が紫色になって、高校を出たばかりの私にとってはそれがすごく新鮮に映った。今まではやはり日帰りで帰れるところに行くことが多くて、その北限である宮城や山形だと電車の帯は緑色なのだ。
高速バスに乗り込んだときには、もう日が落ちて暗くなっていた。私はバスより電車が好きだ。駅に止まるから。あと新幹線より特急が好きだ。新幹線は早すぎるから。
ひとり、フェリーに乗り込んだ。フェリーに乗ったら一番にするべきことがある。入浴券を買い、風呂に入ることである。フェリーの風呂はそれほど大きくないし、落ち着くにつれて人も増えてくる。乗船時間中に入ってしまって、出港と同時に一杯やり始めるくらいがちょうどいいのだ。まあ当時の私はまだ飲酒できる年齢ではないので、カップ麺でも啜っていたような記憶がある。でもこういうイレギュラーな環境で食べるカップ麺というのは不思議に美味しくなるものなのである。
2日目
苫小牧港に着いたので、バスに乗って駅まで出た。7時である。7時31分の追分行きに乗ると、国鉄時代のキハ40車両だった。私はこの車には思い入れがある。中学生の頃から長期休暇の旅に友人と乗っていた只見線の車両がキハ40だったからだ。この車はあまりに非力で、加速するとき毎回グルグルと苦しそうな声をあげる。かつ相当重いので、線路のジョイントに来るたびにガタン!......ガトン! と大きい音を立てる。あまり理解されないが、古くて無骨な感じが冬の北日本に似合う気がするのである。そしてこのキハ40も製造から45年以上経つ今急ピッチで置き換えが進んでいて、近く全車廃車になる運命だ。この時、キハ40で北海道を旅することができたことを幸運に思う。

追分駅、そして室蘭本線は、沿線に多くの炭鉱を抱え、一時は石炭輸送で活況を呈していた。もう50年近く昔の話だが、広い駅構内はその時の名残だ。今や行きかう人は少なく、長いホームに1両きりのディーゼルカーが止まっている姿はなんとも寂しい。釧路方面の普通列車が数時間にわたって来ないのでここから特急に乗り、新夕張に降りた。
新夕張に降りたのは単に降りたことがなかったからだ。夕張と言えば、メロン、財政破綻、炭鉱、夕張支線。一時は人口10万を超えた市が、今は7000人である。ゴーストタウンみたいに言う人も多く、夕張の廃れ具合を映した動画もyoutubeにあるが、人口7000人は北海道の自治体の中では特段少なくはない。ただ、廃墟などが多く残っているから特にみすぼらしく見えるのだ。そんな新夕張駅のホームは高台の上にあり、ホームからの風景はご覧の通り。

北海道の冬というのは、基本的にこういう風景が広がっている。雪の白、空の灰色、木の茶色という具合だ。新得で特急を降りて、帯広行きの普通列車に乗りながら、なんだかブルーな気分だった。東大で上手にやっていけるか、友達はできるか、スポ身の授業で笑われないか。高校で仲が良かった友人たちはみな、違う大学に行くことが決まっていた。悩んでも仕方がないことを悩んで、釧路まで行ってこの日は終わった。
3日目
釧路から根室まで行って、5分後の列車で折り返して釧路に戻って、駅ナカの食堂で昼飯を食べて網走へ。釧網本線の車窓から、オホーツク海にぽつぽつと白いものが浮かぶのが見えた。確証はないが流氷な気がした。夕方に網走駅に着いた。駅前の東横インに宿をとっていた。セコマでホットシェフを買ってきた。それだけだった。
4日目
5時56分のオホーツクで遠軽へ向かった。遠軽からは名寄本線の代替バスで紋別へ。ここからは未知のエリアである。バスには自分一人きりだった。晴れてきていた。海が綺麗に見えた。新しい場所のワクワクが今までの不安を打ち消して、いい気分だった。バスの時刻表とにらめっこしながら雄武に行き、30分の折り返し時間で展望台に登って帰り、興部で乗り換え、名寄。

雄武の町並み。人口4000人の町である。十分立派な町だ。
名寄から宗谷本線で旭川へ。旭川駅で、またも「なの花」のラーメンを食べる。当時は500円ちょっと。シンプルな醤油ラーメンである。これを食べながら空港行きのバスを待つのが、お決まりの流れだ。

それでもう終わりである。高校生の頃の私は、移動にばかり価値を置いていた。食にも宿にも人にも気を払わず、移動しなければ意味がないと思っていた。なぜそこまで動き続けたのか、もうわからなくなってしまった。
でもやはり電車に乗っている間というのは、今でも結構特別な時間である。変わり映えしない通学中であっても、寝たり、本を読んだり、車窓を眺めていたりすると、電車の中だから浮かぶ考えがたまに出てくる。やっぱり場所を変えると考えも変わる。それは一つ自分の中に実感としてある。
旅行記①: 2019夏 留萌・宗谷・上川
手元にある予定表によれば、去る2019年9月1日から5日にかけて当時高校1年生だった私は北海道を旅した。これは私にとって初めての自分で計画した複数の宿泊を含む単独旅行であり、その個人的意義は大きかった。ここではその旅行を振り返り、思い出に浸るとともにそのできる限り詳細な記録を残しておくこととする。
*この記事は、2021年から2025年までの間に断続的に書き足されてきているので、文体の変化が至る所にみられるが、当時の文章を尊重しそのままにしておく。
1日目
発~北海道上陸
北海道までのルートは、盛岡まで鉄道+八戸までバス+苫小牧までフェリーとした。安いうえ、時間効率が良かったからである。東京を東北線の始発で出れば18きっぷを使って盛岡まで2400円、そこから先は18きっぷは使えないものの八戸行きの高速バス(2500円)にすぐに接続、それに乗ると港まで乗り換えいらずで苫小牧行きのフェリーに接続している。このフェリーで一夜を過ごせば、翌日の朝には北海道に上陸という算段である。

フェリー内はあまり覚えていない、というか高校を卒業した春の同じフェリーの記憶に上書きされてしまった。写真も撮っていない。あまり埋まっていなかった雑魚寝の2等船室で早々と眠りについたような気がする。

2日目
苫小牧~札幌~深川~初山別~羽幌
記念すべき北海道上陸の写真も、ない。北海道には家族旅行で小学生の頃から何度も訪れており、飛行機もフェリーも慣れてしまっていたからかもしれない。最初の写真は、日も高くのぼった岩見沢駅前のベンチでトンボと戯れている写真であった。
そして函館本線を北上し、深川から留萌線に乗り換え、留萌から羽幌線代替の沿岸バスに乗り......
到着したのは、初山別村です。

この場所には、温泉・ホテル・道の駅・レストラン・公園・天文台・キャンプ場・海・丘・夕日スポットが揃っており、初山別村の観光の中核と言えましょう。特に温泉は、オーシャンビューのバルコニーがついており、雄大な景色を見ながらお湯につかれます。オロロンラインを通るなら立ち寄るべきです。
温泉につかったら、今宵の宿の羽幌ユースホステルへ。町の中心部からは少し離れた場所にありました。ユースホステルの写真は何故か撮っておらず、ありません。残っている写真は、そこに向かって坂を上っている最中にあった池のみです。
夕食時に旅の男性らしき方2名と同卓になり、目的地はどこかみたいな話をしました。私が幌加内町と言ったら、知らないと言われました。羽幌から見れば隣の町ですが、碌な道路もなく、交流はほとんどないでしょう。
3日目
朝のバスで羽幌を発ち、一路北へ。車窓から橋梁などの羽幌線の遺構を見ることができ、満足です。
幌延のローカルスーパーで昼食を買い込み、宗谷線の列車に乗り込みます。名寄方面の列車まで少し時間が空いていたので、稚内行きで逆行し、下沼駅を訪問しました。
門のような木々を抜けると、まっすぐな駅前通りには視界を遮るものはなく、だだっ広い畑をちっぽけなトラクターがゆっくりと動いていました。20分ほど駅前を見て回ったら、名寄行き普通列車で一路、美深へ。

駅舎内には売店や美幸線資料室もあります。売店で美深の駅キーホルダーと、何故か売っていた国鉄羽幌駅の入場券を買い、美幸線資料室を覗きました。美深という地名、字面もいいし澄んだ響きで私は好きです。ちなみに美幸の鐘が鳴る時間については、「午前9時と午後3時」「スーパー宗谷(今はないが...)が来たとき」などいろいろな説がありますが、詳細は不明です。美深出身の人に聞いても、気にしたことがないとのこと。
特急に一駅だけ乗って、向かうのは名寄。美深に下りたのは、たんに時間つぶしのためです。道北を旅していると、名寄には幾度となく訪れることになります。しかし、ともすれば名寄は単なる通過点になってしまいがちです。ディープな名寄の旅もいつかしてみたいものです。

私一人を乗せたバスを降りて、やってきたのは幌加内。この町唯一の旅館である吉野家旅館にお世話になります。
ところが......。予約の電話の時にミスをしたらしく、予約が取れていなかったのである。さらに間の悪いことにその日、工事の人の特需によって旅館は満室だったのである。野宿を覚悟して玄関から踵を返そうとしたところ、「今部屋を開けるから待っていろ」という。少しの間があって案内された部屋は、廊下の奥のほうの明らかに客室とは異なる雰囲気で、室内には仏壇が鎮座していたのであった。私はそこで運ばれてきた夕食をとり、宿の人の温かさに篤く感謝しながら、知らないおばあさんの写真の前で床に就いたのである。
4日目
すがすがしく快晴。朝からバスに乗り、8時過ぎに鷹泊駅に到着。バスには深川まで通学する高校生が多く乗っていた。お目当ては、30年前に廃止された鷹泊駅の駅舎である。廃止後に改修や保存工事などの人の手が入らず、ほぼ手付かずで残存している貴重な駅舎だ。草生していたホーム跡も見ることができ、満足した。
鷹泊の集落は、雨竜川に沿っている。川の土手に上ると、道路に沿って金色の稲穂が太陽の下で揺れていた。ここで撮った写真が、この時から4年以上、スマホの背景とロック画面になっていた。次のバスまで3時間弱、ひたすら何もない集落を歩いていた。時折通り過ぎる車以外の誰にも会わなかった。

昼には幌加内の街中に戻り、バス停・交流所・深名線資料室併設の交通ターミナル二階の蕎麦屋で昼食。幌加内に来て蕎麦を食わねば嘘である。
そんな感じで4日目は深名線沿線を探索して過ごし、昨日と同じ吉野家旅館に宿泊。一泊二食6500円也。部屋が空いたので、きちんと客室で寝られた。夕食は野菜が美味しかった。
5日目
9月の北海道の朝は寒い。それも内陸なので、普通に5℃とかになることもある。夏とは思えない厚着をして、バスで幌加内町を去った。深川に出て、旭川に回り、富良野線で富良野へ。富良野ではとても美味しい塩ザンギを食べたことがあるのだが、それがこの高1の夏だったか大学1年の夏だったかはっきりしない。そして、24年3月についに廃止された根室本線の東鹿越方面に乗った。この車内で、大阪の中学校で理科の教師をしていたというおじさんに話しかけられ、東鹿越から滝川まで2時間ほど話し込んでいた。
彼は教師を定年したあと、大道芸だか大車輪だかを趣味としながら全国を旅行しているというよくわからない人だった。何を話したか、とんと覚えていない。列車の音がうるさくて、会話に苦労したことは覚えている。終点の滝川まで話し通し、駅前の食堂でうどんを奢ってもらった。若者は腹が空くだろうと言われ、半強制的におにぎりをつけてくれた。
旭川に戻って、夕方。駅併設の観光案内所の中にある「なの花」で締めのラーメンを食べる。この店は安くて駅ナカにあってすぐ食べられて、と非常に便利なので、旭川に行くたびに寄っている。おそらく5回くらいは行ったはずだ。焼きそばなども出しているが、私は醬油ラーメンと塩ラーメンしか食べたことがない。素朴でよいのである。
17時のバスで旭川空港に行き、19:30発のAirdoで羽田へ。私が北海道から帰るときは、このコンボが非常に多い。時間が使いやすく、一日満喫してから東京へ帰れるのでよいのである。ラウンジで飲み放題だったキャラメルマキアートを5杯くらい飲んだ結果、カフェインが効きすぎて飛行機の中で考えが止まらなかった。
そんなこんなで帰ってきた。5日間、初の北海道一人旅。どこにという自覚はできないけれど、自分の人生の色々な部分に、ひそかに影響を及ぼしていると思う。